私、後藤洋子のこれまでのこと、
なぜいまエンパシープロモーションを
お伝えしているか?を
「My story~エンパシープロモーションまでの道」として、
シリーズでお届けします。
メルマガでお届けしたものの
凝縮バージョンですが、
よかったらお付き合いくださいね^^
第1回の今日は、
「人生でやりたいこと・軸の原点は子どもの頃にある」
幼少期~ 大学編です。
私 後藤洋子は
12月23日に生まれました。
出産予定日は1月11日だったのですが、
だいぶ早くに、
2500gと未熟児すれすれで生まれました。
(だから今も身長151センチと小柄なのかも?)
寒い時期だったこともあり、
生まれてしばらくは保育器に入っていたそうです。
(初めてのお正月は病院で迎え、
ご馳走が出たそうです^^)
当時、両親が住んでいたのは、
愛知県西春日井郡西枇杷島町というところ。
(現在の愛知県清須市)
父・母の他に、父方の祖母と
叔母(父の妹)が一緒に住んでいて、
家庭としては諸々問題がありましたが、
私は家族に「我が家の外交官」と言われて、
家族だけでなく
近所の大人みんなに可愛がってもらって
育ちました。
「外に出ていかないように」と
締められた門の中から
道行く人に
「おじちゃん、どこ行くの?」
「おばちゃん、なんて名前?」
と、物おじせずに
声をかけていたそう。
普段仕事で家にいない
両親が知らない近所の人のことまで
私は詳しく、
たまに休みの日に一緒に買い物に行くと
近所の人
「洋子ちゃん、今日はお母さんと一緒なんだね」
母
「(私に対し)どこの人?」
私
「あれはね~、〇〇屋のおじちゃん」
と教えていたそうです。
後々、自分がこの家に生まれてきたのも
バラバラになりそうだった家族を
「つなぐ」ためだったと自覚しますが、
「コミュニケーション」「つながる」というのは、
幼少期からずっと私のテーマでもあるのです。
幼稚園の頃には、溶け込めない子を
上手く仲間に入れるようなことも
自然としていて、
周りの大人に愛されて育った感覚は、
のちに「人の懐に飛び込むのが上手い」と
言われるベースになっている気がします。
(父・3歳下の妹と)
そんな私でしたが、
幼稚園・小学校と進んでいくうちに、
生きにくさを感じるようになりました。
「自分の意見を多く通し過ぎる」と
言われるようになり、
小学校高学年頃からはひどい反抗期がはじまり、
身内、特に親には適切な対応が出来ない、
心理的に屈折した日々を過ごしました。
そのため大学は心理系の学部に進もうかと
思ったこともありましたが、
中学生のころから
遺跡の発掘をするなど
「文化人類学」に興味があったのと、
本が好きだったので
「学芸員」「図書館司書」の資格も
取れる学部学科を中心に受験。
三重大学人文学部文化学科に
入学することになり、
通うと片道2時間はかかるので、
3年生までは下宿をさせてもらいました。
大学生活は楽しかったです。
総合大学だったので、
いろんな学部に友達ができたし、
車であちこち遊びにも行きました。
生活の中心は、何といっても
「アルバイト」。
国立大学で
周りの友人が塾や家庭教師をする中、
経営者と関わることの多いバイトを好み、
ゴルフ場でのキャディ、
料亭でのお運びなどをしました。
バブルの頃だったのもあるかもしれません。
当時は働いてお金を稼ぐのが楽しくて、
バイトに明け暮れた日々でした。
大学3年、4年の時には、
アメリカの大学に1か月滞在、
卒論の調査を兼ねヨーロッパ5か国を1か月まわる、
卒業旅行でヨーロッパ3か国へ2週間など、
長めの海外旅行で
貴重な人生体験をすることができました。
親に借金しながらでしたが、
二十歳過ぎのあの頃にしか感じられなかったこと、
体験できなかったことが出来たので、
ほんとうによかったと思います^^
大学生活の締めくくりは、
卒業式後の学科の謝恩会の幹事でした。
「誰がやるか?」なかなか決まらず、
うだうだしていたので
「じゃー、私、やる!」
それまでも、
合コンや飲み会の仕切りはしていましたが、
会場となるホテル宴会場の予約や、各種手配を行い、
よくわからな いままなんとか成功。
今思うとのちにイベントの企画・主催を
するようになるきっかけだったかもしれません。
(大学の卒業式です。大きな花束いただきました^^)
初回ということで、
エンパシープロモーションの原点ともなる
私の幼少期から大学の頃までを
紹介させていただきましたが、
子どもの頃を振り返ると
「今の自分につながっている」
「人生で大切にしたいことや軸、
やりたいことの原点は子どもの頃からあった」
ことに気づけるものですね!
今日はここまでです。
第2回は
「人生の転機を迎える時に出て来るもの」
就職~転職編
をお届けしますね。